商品誕生までの開発物語 プロジェクトXX
≪豆名月編≫
モンドセレクション金賞受賞「豆名月」に秘められた思い
〜工場を蘇らせた男 大沼 雅俊(現中条社長)〜
昭和57年、大沼は本社マーケ部から中条工場係長として中条工場に異動になる。
当時、これまで中条工場を支えてきた「俵もち」「渚あられ」の売れ行きがダウンし、主力商品の開発に頭を悩ませていた。社長(現相談役)からは「毎週3品持って来いっ!」と激を飛ばされていた。
「なんとか工場を動かせる商品を作りたい。。」
熱い思いを胸に大沼は昔から好きだった豆入り製品の開発に情熱を注いだ。
まず、豆を選ぶというところから始まった。豆の種類の中で柔らかくおかきに良く合う黒豆を選んだ。豆入りの商品は難しいという。豆がじゃまして、生地に火が通らず芯が残る、しかし火を強くすると焦げてしまう。ジレンマに悩ませられながら、生地の厚さや豆の柔らかさを変えた試作をなんどもこころみた。また、黒豆を選んだことによって、他の商品に豆が混入した場合に、黒豆の黒い皮がクレームの対象になるという高いリスクを負う。
試行錯誤を繰り返して出来た商品は「豆名月」と名づけられ、2級品率35%と生産効率は悪く問題はあったが、大沼は自信があった。
「これはおいしい、絶対に売れる」
信念のもと、工場を動かし発売に切り出した。(昭和58年)
しかし、発注は一向にあがってこない。そこには販売部の存在があった。
当時の販売部は言った。
「こんな、芯の残っている商品は売れない」
工場を動かしどんどん生産しても、販売部が「売る」と決めてくれなくては、市場に出ない。仕込みすぎた餅は色とりどりにカビていった。それでも、工場を休めることはできず、カビた餅は捨て、また作る。そして残ったのは「豆名月」3000ケースの在庫の山。
このような苦境の中、なぜかあっという間に3000ケース売れてしまう事件が起こる。ある一人の営業が試しに売ってみたところ、反応が良かったためだ。次々に自分も売りたいと営業から声が上がり、どんどん発注が上がってくるようになった。大沼の顔に笑顔が蘇った。「豆名月」より一足先に発売された餅の切断に工夫を凝らした商品−「欅銘木」−も順調な売れ行きをみせ、中条工場復活の兆しが見え始めた。
翌年、「豆名月」は全国菓子博覧会で食糧庁長官賞を受賞、さらに次の年にはモンドセレクション金賞を受賞し、勢いをつけた。
こうして中条工場は「豆名月」のヒットと「欅銘木」のダブルヒットでみごとに息を吹き返したのだ。
〜工場を蘇らせた男〜大沼は当時を振り返りながら、商品開発に秘められた熱い思いを語る中で、こう言った。
「信念をもつことが大切だ」と。そして「人にうらまれても人に頼られる人間になりなさい」と。。
発売から19年経った今も「豆名月」「欅銘木」は中条工場を支えるブランド商品の一つとして愛され、皆さんの元に届けられている。
終わり
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